コロナ

家族の一人がコロナウイルスに感染し、私も濃厚接触者となったので、2週間自宅待機を行っていた。自宅待機が明けてからほぼ1週間が経つ。

家族が感染することで、コロナウイルス感染という事象が一気に身近になった。幸い家族は完治したし、私を含めて他の家族も陰性だったので、ひとまずよかった。

改めて思うのは、誰でもかかる可能性があり、重症化するかどうかはわからない。過剰にびびる必要はないかのかもしれないけれど、やはり重症化のリスクはあるので、気を付けて予防をしておく必要がある。ワクチン接種が広がり、重症化のリスクが下がるまではまだまだそういう生活を続ける必要があるのだろう。

自宅待機の日々はこれまで経験したことのない感じであった。2週間自宅の敷地から1歩も出ないなんてことは生まれて初めてだろう。家族がこもっても窮屈にならない広さと庭がある家で本当に良かった。都心でマンションに住んでい、なんてことを想像したらおかしくなりそうである。コロナ対策として、自宅療養者、自宅待機者に対する備えもかかせないように思う、自宅の人口密度が高いような地域で自宅にこもる人が増えることはリスクである。こもることが出来なければ、外へ出てしまうリスクが増える。買い物は親戚に手伝ってもらっていた、2.3日に1回、買い物をお願いして玄関先にとどけてもらうのだが、こうした知人が近くにいない場合には他のサービスを利用したりする必要がでてくる。県から食料が届いたが、これだけでは暮らせなかった。感染家族と他の家族は完全に隔離状態で過ごしていたのだが、私の自宅は幸いにも「離れ」があるので比較的隔離がしやすかった。これもマンション暮らしや一つ屋根の下で隔離するのは非常に大変だろうと想像する。

まさか身近に感染者がでるとは思っていなかった、というのが正直なところである。終わってみると何とかなった、という実感なのだが、感染者が出ると大変なので、かからないようにするということが今は大切であるように思う。一方で、自宅待機が2週間必要なのかどうかは、正直よくわからなかった。陰性であっても潜伏期間がるのでリスクがあるから外へ出てはいけないということは何となく理解できるのだが、身体が元気なのに出れないのは正直きつい。私たちの場合は、外に出たときの他からの目が気になるからというのも外出しなかった要因のようにも思える。

この感染症は非常に恐ろしいものととらえられている、重症化している方々がいらっしゃるのは事実なので、侮るべきというわけではないのだが、過剰に恐れることもないように感じる。いい塩梅が重要だ、ワクチン接触が進んでこの恐怖感が実感をもて取り除かれるのも心待ちにしたい。

しばらくは、コロナ感染がでたときを想像して、暮らしをみつめる必要がある期間が続くのかもしれない。

マイナスを減らす

マイナスのことを出来るだけ減らして行く必要がある。人生に焦るとかそういうことではなく、焦る気持ちもあるんだけれど。マイナスは連鎖しそうだから。プラスになろうとすることを妨げそうだから、プラスに貪欲にならないと、人にハッピーなんて与えられない。

言葉にする

柔道の技について教えたり教えられたりしていると、言葉と感覚の関係は不思議だと思う。

言葉で説明しようとすると難しいことがあっても、感覚的には伝えられるような感じがする。でも言葉にするのは難しいし、何とか言葉にしても伝わっているかどうかわからないこともある。

組み合ってやってみればわかる。ということが結果的にうまくいくことが多い。だが、言葉で説明しないと体の使い方などは改善されない。

感覚的にこべりついたものは感覚でなく、言葉を入り口にした方が感覚につなげやすいのかもしれない。

それってデザインにもつながるような気がするなぁ。

みずみずしい

この前のこと、息子が「みずみずしい」と言う言葉を使っていて驚いた。

何に対してか、玉ねぎ小屋に干してあった玉ねぎを見たようで、その玉ねぎがみずみずしかった、と言っていた。

その言葉を息子から聞いた瞬間、不思議な感じがした。そういう言葉を使うまでに成長した息子に驚いたのもあると思うけれど、今思うとその表現に妙な身体感を感じたからなんではないかと今思う。

息子が発したみずみずしいの意味は、定義されているものの通りかもしれないけれど、そうでなく彼独自の身体感覚も混ざっているように思う。どこかで聞いた言葉を使っている可能性もある。言葉の響きと自分の感じたことが混ざり合って出てきた言葉のように思った。

その言葉と感覚はそのまま大切に持っておいてほしい。そして、いつかそれを人に伝えられるようになってほしい。伝え方は言葉でなくてもいいと思う。

堂々と

子どもたちの雰囲気が少し変わってきた、と思うのは気のせいだろうか。

自分の思うことをはっきり言うようになってきた気がする。特に息子は真面目なのかなんなのか失敗するとシュンとなることが多かった、飲み物をこぼすだけで泣いたり。最近は堂々と失敗出来ているような気がする。ちょっとの失敗は笑ってごまかしている。いたずらばかりしろとは言わないが、いいぞ、と思ったりする。

子どもはどんどん成長していく。周りに大人が多い環境もいいのかもしれない。

なかなか適応能力がついてきたのでは、と妻が言っていた笑

決めたのに

毎日は続かないだろうから、毎週3日は考えたことを書くと決めたのに、なかなか出来ない。忙しさを優先することはとてもプアなのはわかっているつもりなのに。

その時にしか出来ないこと、その時にやるべきことをきちんと見つめるのは難しい。自分が立っているところから一歩引いて自分を見る必要がある。

地方暮らしはエコか

菅内閣総理大臣が2050年のカーボンニュートラル、脱炭素社会の実現を目指すことを発表し、エネルギー消費、再生エネルギー利用、カーボンプライシングなど様々な視点でエネルギーを有効に使っていくことが求められる社会への変革が進んでいることを感じます。

そこで、自分の状況はどうなのか、について考えてみたりしています。地方暮らしというのは何となくエコなイメージを自分でも持ってしまうような気がしていますが、本当のところどうなのか。

エネルギー消費について。地方は車での移動が多くなる。私が住む地域は電車が走っていないので地域の公共交通機関はバスのみで、本数も少なく不便である、自然と自家用車での移動が多くなる。今乗っているのはガソリン車なので、排気ガスをバンバン出しながら移動している。仕事で大阪方面に出る時は高速バスの停留所まで車で向かうので排気ガス出しながらガソリンを消費している。

家のエネルギー消費については、両親と一緒に住むことである程度省エネに出来ているような気がしている、オール電化エコキュート使っている。蓄電池に興味はあるがイニシャルが高くて手を出せない。蓄電池を使っても、電力消費量は変わらないので、コストカットと需要ピークを避けた電力利用ができるということなのかもしれないが。

エネルギー利用については、両親が設置してくれた太陽光発電設備を利用している。家を仕事場として利用しているので、昼間家に誰もいない家庭よりも少し電力利用はあるのかもしれない。システム化にすれば、太陽光発電電力をさらにうまく使えるのだろうか、これもイニシャルがかかる!?

身の回りのことをざっと眺めるとこんな感じだろうか。だが、もっと大きな視点も必要なのだと思う、普段食べている食品はどこからどういうカーボンフットプリントで手元に届いているのか、畑でとれた野菜を食べることがどのくらい脱炭素につながるのか。普段の自分の生活をスキャンしてカーボンフットプリントを数値化して欲しいくらいである。そんなサービスできたらいいだろうな。すぐに出来るわけではないと思うので、日々の暮らしについて知る、調べることを心掛けていきたい。