217 藤本壮介氏レクチャー

レクチャー前と後で氏に対する印象がガラッと変わった気がする。建築の根源を問いながら建築の形式に対する発明を推し進めるタイプの人だと思っていた。
レクチャーの中で「スタイルがないことへのコンプレックス」を語っておられて、そんなことはないのではないかと思っていたが、「サーペンタイン前後での違い」を感じた。(レクチャの中でもサーペンタインが転換点であることに触れていた)

4つの名作と自信の作品を語り、建築の根源まで突き詰めて考えた作品であるという紹介がされた(と思った)、サーペンタイン以降の作品群とは説明のテンションと密度が明らかに違ってみえた。
その違いについて考えることがとても重要な気がしている。どんな建築であっても建築そのものを問い続けなければならないのは当然なのであるが、その違いはどこから生まれるのか。

サーペンタイン以降の計画中の建物の説明では、「自分が考えたものではなく、そこにあるものを見出す」と語った。自分で考えたものが全くないという意味ではなく、地域・敷地・規模・用途・要求など設計条件と呼ばれるものに対する応答であるという意味であると思う。 仮にサーペンタイン以前を「建築の根源を問う」として、以後を「そこにあるものを見出す」として、後者を藤本さんが表明することに違和感を感じるのはなぜなのか?それが氏の建築に対する向き合い方の根源なのか?2つのことは相反するものではなく、接続するものなのかと(自分に)問うてみたいし、そこに重要な要素があると思う。

仮定1:両者は接続されるものであるとしたら
建築を考えるプロセスの中で、両者のどちらが先行するか、それはどちらでもありそうであるが、どちらかというと、以下の順序の方が個人的にはしっくりくる。そこにあるものを見出すなかで形を与えるときに、建築の根源を問うてきたものがあてはまる。具体的には、敷地条件に対して出てくる幾何学的形態と、建築にとって幾何学的とは何かという問いをかけあわせる、などという場合である。(この具体例があっているかどうかももっと問われるべきであるが)
この順序について、条件から考えるか、形式(様式)から考えるかという論点に落とし込みたい。いや、2つは同時なのかもしれない。

仮定2:両者は分断されてしまうもので、接続は難しい
もしそれを分節してしまう要因が何かあるとしたら、3つ考えてみた

1.建物規模
建物規模が大きくなると、処理すべき要因が増え、建築の概念的な部分の要素が薄れていくのかもしれない。
2.協働設計
規模の大きな再開発や複合施設は他者(他社)とコラボレートすることが多くなる。(近年さらにそういう傾向が強いか)そうした時に「自分」が設計するのはある部分であるので、建築の根源を問いがたい。
3.建物用途
例えば、集合住宅であれば、求められる機能(人が住むという行為)は今も昔も変わらないし、それが集積されるかたちは形式的にある一定の固定度を持っているのかもしれない。

建築を考える仕組みなど、国による違いなどもあるのかもしれない。

私の思いとしては仮定1が理想であると思いながらも、仮定2になってしまうこともあるのが現実的であるように思う。しかし、仮定1であろうとふるまうことが建築の(建築家の)価値であると信じている。
(建築が完成していないので何とも言えないが)藤本さんがサーペンタイン以降として説明した建築は、仮定2の現実を感じながらも、仮定1であろうとする意志にあふれているように感じた、だが、形式に対する問いの広がりが部分的なものになるような壁が生じてしまうのが仮定2的な状況なのかもしれないとも感じた。


以下、レクチャの中で4つの作品と語られたものを時系列に並べた。
2008年 House N
2011年 House NA
2010年 武蔵野美術大学図書館
2013年 サーペンタインギャラリーパビリオン