日常は不安定かもしれない

何曜日はこの打合せがあって、何曜日はこの作業をする。いまの仕事は週決めで業務を当てはめることが多い。

木曜日には某プロジェクトの打合せ、と決めていても、色々な事情で自分の体が拘束を受けることがあり得る。打合せのためにはその準備が必要で、そのための時間も確保するとすると、相当量の自分で使える時間を確保する必要がある。

そうした時間は他の人が、私が自分ですべきだったかもしれないことをしてくれることでなりたっている。食事の準備、家の掃除、子どもの見守り、子どもの成長のための活動補助、移動のための運転など、

食事の準備は妻がしてくれることもあるし、誰かが作ったものを購入することもある。子どもの見守りは幼稚園の先生が担ってくれることもある。

いまの生活は、自分ですべきだったかもしれないことのほとんどをお金と引き換えにやってもらっているのかもしれない。

いや、資本主義社会での生活のことを書き留めたかったのではなく、自分がすべきだったかもしれないことを他人にしてもらうことは不安定であるということを書きたかった。妻が体調を崩せば食事の準備をしてもらうことは出来ないし、子どもの調子が悪いと幼稚園に行くことはできない。そんな不安定さを実感すると、何気なく普通に過ごしている日々は運良く手に入れたものなのかもしれない、と思えてくる。