柔道

かなり久しぶりに柔道着に袖を通して稽古をした。

久しぶりだし、身体はちゃんと動くか、受身は取れるか、など色々気にはなったのだけど。なんとかなったし楽しかった。

柔道は激しい、荒っぽいとみられるかもしれない。けれど、魅力があると思っている。

相手と組み合うので、激しい攻防があり、怪我をすることもある。だが、相手と組み合うから自分を見つめ、相手を見つめないといけないところが魅力なんだと思っている。道着を通して相手と組み合う、道着を通じて伝わってくる情報、相手の視線、体の動きから読む必要がある。

相手を投げられるかどうかということも重要なのだけれど、他者との対話という点でも柔道を語れるように思う。

そもそも、相手がいないとできない。

勝ち負けも大事なんだけど、柔道を経験する子どもたちにはそれをわかってほしい、自分は大人になってからしかわからなかったけど。

建築と教育とデジタルツール

大学の建築教育のお手伝いをすることになりそうだ。

建築は扱う領域が広い分野だと思うので、教育には難しさがある。設計の実務は働き始めてから学ぶという人ももちろん多い。(設計実務がすべての学生に必ず必要になるわけではないので当然か)

建築の設計にはCADと呼ばれる図面を描くためのツール(アプリケーション)を用いるのだが、大学教育で特定のアプリケーションを教えることを疑問視する声もある。たしかにアプリケーションは日々(年々)変化するものなので、やり方を覚えても変わってしまう。ただツールを扱わなければ建築実務でそのツールやその上流概念がどのように使われるのかはイメージしにくいところがある。

デジタルツールを教えることが学生にとってどんな価値があり、どのように学生の未来につながるのか、それをしっかりと考えたい、学ぶことが直接的につながらなくてもその人の何かと接続すればいいと思う、ただ何かというの計画を立てられるものではないようなきもしている。予測できるものではなく、結果が教えてくれるものなのではないか。それであれば、難しいことを考えずに、面白いと思えるものを提供する。建築に興味が湧くようなものにするということも考えられるのだろう。

情報量

子どもたちはゲームもYOUTUBEも好きだ。没頭している姿を見ると、他のことが見えていないように見えて心配になるときがある。

なぜ心配になるのか、それしか見えていない状況はあまり良くないと思うからだろうか。色々なことを経験してほしいと思うからだろうか、だがゲームから得られる経験もたくさんある。

ゲームやインターネットを通じての経験や情報は今の時代に生きているからこそ得られるものである。情報が多すぎるとちゃんと選択できているのか心配になる、だがその心配も今の時代に子どもとして生きていない自分の考える範疇でのことであって、今を子どもとして生きる子たちは違うのかもしれない。可能性は無限だ。

やりすぎて健康を害さないことを見守ってあげるくらいでいいのかもしれない。

家族が多い

他人と一緒にいるというのは、色々と大変なことがある。一緒に暮らしていると、趣味や嗜好の違いが明らかになるし、それが原因で色々な感情の揺らぎがある。

家族の規模や1つの家庭にしめる世帯数は小さく少なくなっていっている(のだろう)。たぶんそれは感情の揺らぎを我慢するのが大変だからなんだと思う。

今の世の中は色々な情報が入ってくる。(というのは、わざわざ言わなくても良いぐらい当たり前で、もうそんな状況になってからかなりの時間が経つのだからわざわざ言うことじゃない。とも思うのだが)とにかく入ってくると思う。それが感情の揺らぎの原因の一部になっているような気がする。あの人はこういう風に暮らしているのに、誰かみたいにこうしたい、みたいなのがなければ、感情の揺らぎは少し減るのかもしれない。

だけれど、そんな感情の揺らぎを受け入れて色々な人と一緒に暮らすことにも価値があると思う。そんな価値は何十年経たないと実感しないのかもしれないけど、入ってくる情報量や体験量が増えるのは笑いだけでは無いと思う。(思いたい)

我慢しなきゃならないのは間違いないので、楽しむことが大事なんだろう。

宗教をつなぐ

祖母の三十五日の法要だった。三十五日の法要をしっかりするのは淡路島特有のことらしい。

亡くなってからは徳をつんで仏になるのだという。

宗教にはどういう意味があるのだろうか。徳をつむとはどういうことか、生きてる時にそれを考えたり、学ぶということ。宗教を介して地域が人がつながるという意味もあるのかもしれない。

地方は人口が減っていくことは明らかなので、そのまま続けていくことというのはとても難しいと思う。

でも、良いと思うことはつないでいったらいいと思うしつながっていくものなのではないか。どういうところがいいところなのか、しっかりと考えることが大切なのだと思う。それを考えるのは自分たちの世代なのかもしれない。

出来ること出来ないこと

都会でしか出来ないことは何か。そんなことをよく考えるようになった。都会でしかできないことはあるか、あるとしたらどれだけあるか、田舎でしかできないことはあるか、あるとしたらどれだけあるか。そんなことを考えることが今の自分にとって大切な気がしている。

住む場所を選択する理由として、仕事ということがあるのか、ないのか。都会でしかできない仕事、田舎でしかできない仕事はあるのか、ないのか。

自分の選択の意味を問うているのかもしれない。直感に従って地方(田舎)に住むことを選択した。そのことについて考えないことは無い日々なのは正直ある。

楽しければそれでいい!んだけど、自分の行動の意味みたいなことを考えたい気がするんだよなぁー。

毎日の努力に先を見据えた部分をちゃんと混ぜていく必要がある。

 

久屋大通公園

名古屋中心部に位置する公園だが、元々道路の中央帯であった場所が公園化されたようで、道路を縦断するように長く続くリニアな公園空間である。

商業施設と一体となって整備されており、いくつかの性質の違うゾーンがある。商業施設がメインのゾーンや芝生広場のゾーンなどがあるようだ。

立地から気になっていたことは、道路をまたいだ公園ということで道路と道路の間をどのようにデザインしているか。商業施設との一体感のデザインはどのようになっているか。という部分だった。

道路をまたぐ部分は通常通り歩道があり、おそらく公園を横断する人が道路に出ないようにA型バリケードが置いてあった。この部分が正直残念であった。歩道があるのは仕方がないのかもしれないが、せめて、舗装のデザイン、進入防止対策のデザインは公園のデザインと一体的として場を作ってほしかった、公園どうしが道路で分断され、さらに歩道で分断される、二重に分断されているように見えてしまった。乱暴だが公園の幅の横断歩道くらいのことがあってもいい、公園のそれぞれのゾーンの雰囲気が良かった(寒くなってきた秋にも関わらず、広場でくつろぐ人や店舗をめぐる人が多くいた。しかも平日の昼間にだ)ので、その点が残念に感じた。

商業施設は三井不動産がRAYAD(公園一体型の商業施設ブランド)を展開していて、話題性がありそうなテナントが並んでいた。商業施設はゾーンごとに少しコンセプトが違うか?と思わせる作りをしていて、お店の独立性が高いゾーンと、まとまった施設の中に店が入るゾーンなどがあった。商業施設の外観は、オリジナルに設えられているものと、汎用展開のものがあるようだ。商業施設の宿命かもしないが、外観に統一感がないのは公園にとってはマイナスのように感じた。どちらかというと落ち着きのある公園だと思うので、ごちゃごちゃした見た目は似合わないのではないか。同じRAYAD展開の宮下パークは公園を屋上化する空間構成で商業と公園がフロアで分かれているが、久屋大通公園のように公園と商業施設を一体的にデザインする難しさを感じた。ただ、公園の外から見ると公園の外縁にある木々が建物の外観にレイヤーを1つ重ねるような感じで、いい感じに調和していた。

 

 

参考資料

都市の魅力を高める公園経営 ~久屋大通公園に焦点をあてて~

https://www.nup.or.jp/nui/user/media/document/investigation/h24/108.pdf

名古屋情報通

久屋大通公園内『レイヤード ヒサヤオオドオリパーク』がついにオープン。おすすめ店舗&グルメを徹底紹介! | 名古屋情報通